出会いのイロハ(杜国朝の回顧録)

私はいままでの人生を振り返ってみて、ハッキリいってほとんど出会いというものがありませんでした。
学校を出てから県外就職をし、その企業の独身寮の寮母からも何人かの女性を紹介する旨の話を受
けましたが、いっこうに話が進みませんでした。

自慢じゃありませんが、当時は半官半民のお役所から民営化された後の会社でして、それはとても安
定している会社でした。(昭和61年頃)ですので、私も会社の威を借りて偉そうにしていました。

『一流企業の会社員だ。嫁になりたきゃ、あんたの方から来なさい』

ってね。
田舎にある一流企業だから、昔から一目置かれていたところでした。

『そうよ私はエリートなのよ!』

ってね。
今思うと、とてもバカらしいことを真に受けて考えていました。
この考えが、私を晩婚化させることになったきっかけといえばきっかけなのです。
この時代の少し前から三高と呼ばれていて高収入、高学歴、高身長がモテるための条件になってい
た時代がありました。

収入は今は安いが今後確実に増えていくし、学歴は専門学校卒で中くらいか、四大卒には履歴書を
比べられたら負けるが、鉛筆を転がして大学に入った奴らには学力は負けない自信がある。
これでも一応は公務員試験にも通っているし。
身長はいまや高いといわれることはなくなったにしても、そこそこはある。(178cm)

こんな安定した会社勤めを何年かするうちに魔が差してきました。
会社を辞めるサイクルというものがどうもあるようで、これは退職金の額にも反映されていました。
6年、13年、21年だったかなぁ。(すみません。うろ覚えです。)

私はその最初の時期である6年目に引っかかりました。
実際には3年あたりからこの安定が詰まらなさに変わってきて、俺は会社を作って一旗挙げてやるん
だと訳のわからないことをいうようになっていました。
なんでもいい。やる気があればどんな仕事でもできるんだ。

そんな感じで独立することを常に考えていました。
だからビジネスの話があると、なんだかんだと首を突っ込んでは説明会に足を運んでいました。
いま思うと、人を騙そうとする人にとっては、格好の対象であったことでしょう。

いろいろとやっていくうちに、そのひとつひとつをやり遂げることなく、借金だけがただ膨らみました。
一流企業のサラリーマンだから、銀行はいくらでも貸してくれる。
それが人間に対する信用ではなく、会社の信用で貸しているということも知らずに。

気がついたら返せないかなぁというような額になっていました。
これでは遅いんですよ。
額そのものは今思えばたいしたものではなかったが、いわゆる多重債務というものの恐怖を味わう渦
中の人でありました。

今の給料ではとても返せる見込みはない。
バイトもしました。
他の社員が休みを謳歌しているときに、私は休み返上でいつも働いていました。
こんな生活を何年か味わい、そればっかりに構ってきた私は、すっかり20代の輝かしい時代を棒に
振ったのです。

20代はまさに暗黒の時代でした。
当時勤めていた会社もボーナスこそ多かったのですが、月給が安くてとても返せない。
だから転職をすることが当然の選択肢となっていきました。

一流企業というのはどこもそうですが、独身時代というのはたいして所得が高くないものです。
その企業がすごいと気づくのは、実は結婚をして家族を持ったときからなのです。
当時の同僚に未だ付き合いのある奴がおりますが、まるで当時の収入とはかけ離れています。

でも、私にはその会社は合わなかったのだ。
そう言い聞かせています。
良い会社=私が入る会社
ではないのです。

良い会社の条件は、人間関係がうまくいき、仕事が面白く、給料がそこそこある。
こんな感じじゃないでしょうか。
無理をしないで長く勤められるような会社が、いちばん良い会社なのです。

だから、学歴を磨いて一流企業にという人もおられますが、それが誰しも幸せになるためのプロセス
ではないと私は自分の人生を振り返ってそう思いました。

だから転職は、今までとはまったく関係のない運送業界になりました。
当時の私を知る人たちは、なにか借金でも作って辞めていったんだろと陰口を叩いたことでしょうが、
結果としてこれが私の天職になりました。
最初のうちは普通の人間の寝る時間帯に起きて仕事をするので、目やにが常に残っていました。

それほど身体が無理をしているということです。
そんな不規則な仕事だから朝寝坊もしましたし、いろんなことでお客さんにも迷惑をかけてきました。
何度か運送業界を渡り歩いているうちに、ひとりで自分の軽トラックに乗って仕事をするということも
ありました。

つまり私はいちど、独立をしたということです。
口で独立というのは格好いい響きだが、いざ独りになってみるとこれがまた大変だ。
今までいくらでも貸してくれた銀行が一転、『担保はあるか?』とか、『保証人は?』とか聞いてくるの
を目の当たりにして、自分はいかに信用のない人間であるのかということがよくわかったのだ。

個人事業主というのは、誰しもこのような扱いを受けているのだろう。
あのときは本当に、銀行員がシビアな顔をしていたよなぁ。
あの時シビアな顔をしていた銀行が、今は堅実経営と評価されているのだろう。
事実、貸してくれた銀行はその後マスコミに採りあげられて、今はもうその姿かたちもなくなっている。

そんなことはどうでもよくって、借金もいつしか消えていき、私も他のことに気が向く余裕ができていた。
結婚のことなんて考えもしなかった20代の私が、ようやく考え始めたのである。
それでいざ考え始めたら、今度は自分がすでに結婚適齢期を過ぎていたということをまずは自覚する
ことになった。

それは知人からの紹介を受けるにつれての過程からであった。
ほんといろんな女性がいたなぁ。
バツイチ、子持ち、養子希望・・・・。
お見合いとか紹介っていうのは、いたちごっこだと思います。
自分が良いと思えば相手が顔を横に振るし、相手が良いと言ってくると自分がちょっと待てよとなる。

なかなかうまくいきません。
そうやって紹介ラッシュの日々が続き、いろんな女性と話をする機会を与えられましたが、そのなかに
はいかにも付き合いで私は来たんだという、まるでやる気のない女性が含まれていたということ。

そんな女性ですから、まともにこちらの話など聞こうともしませんし、足は大きく開いて私をさも誘惑しよ
うとしているかのようにも思えるくらいだったし、あばすれ様をとくと見せていただきました。
俺はたしかに三十路に入ってはいるけど、別に誰でも良いっていう訳ではないんだよと、いい加減腹
が立ってきた。

付き合いで来るくらいならば、断ればいいのになぁと私は何度も思った。
人生のなかで一度しかないその時間を無駄にしていることに、私はとてもやりきれない思いがした。
それだけいまの女性がドライになっているということなのか。

お見合いの話もそれ相当の量をこなしてきたが、いっこうに話が進まない。
今はお見合いというものは冬の時代であるわけだし、かといって恋愛をするような性質(タチ)でもない
ので、しばらくはお見合いからは遠ざかっていた。
世話好きおばさんも、いい加減愛想を尽かしていたし。

そんなあるとき、私はパソコンを手にした。
だいぶ前にパソコンを持ってはいたのだが、今のようなものとはまるで違うもので、これほどのことが
できるとは思いもしなかった。
インターネットはまさに革命である。
このインターネットのお陰で、同級生との再開をも果たせたし。

私は結構凝り性なので、やれると思ったことに対してはどっぷり浸かるタイプの人間なのである。
ご多分に漏れず、時間を追うごとにどっぷりと浸かっていった。
いろんな情報があり、良い情報や悪い情報が溢れ返っている。
それらを自分の意思で判断し取り扱っていくこの趣味に、私はこれを大人の趣味だと感じた。

そんな時に検索サイトという存在を知り、何気に『結婚』と打ち込んでみたのだ。
するとどうだろう、出てくる出てくる。
結婚紹介所をはじめとする情報がいくらでも出てくる。
だけど国内の結婚紹介所の扱う日本人女性では、私が今まで味わってきたことの再現になるから、
そんなものにうつつを抜かしていてはならないと私は瞬時に考えた。

そんな時、中国人女性を扱っている結婚紹介所があった。

『30代以上の男性でも若い女性と結婚できます。』

とか、

『農家でも大丈夫。』

とか、

『あなたを待っている女性がいます。』

などと、今までの私の人生を否定しているかのように言った日本女性の発言とは一線を画くかのような
素晴らしいセリフが続いた。
紹介所の女性会員を見ていくと、これがまた若い女性がたくさんいる。
このような女性をいままさに、私が自分の意思で選べるというのだ。
人生まだ終わっていないなぁ、とそのとき正直そう思った。

だけどやっぱり写真を見ていくと、ピンからキリまである。
相手が若けりゃそれでいいというのも、芸がなさ過ぎる。
どうせ一度の結婚ならば、綺麗な相手がいいに決まっている。
そう考えた私は、自分のことを高い棚の上にあげて天秤にかけることなく一方的に品定めをすることに
なった。

いろいろとみていくと、ひとりピンとくる女性がいた。
お嬢さんタイプではないし、品のよさそうなという女性でもない。
だけどなにか私の気持ちを妙にひきつけた。
歳は10歳離れているようだ。
これくらいならば射程距離だ。

その当時35歳であったが、いくらなんでも20歳位の女性だと若すぎて犯罪でもしているかのように
思えたから。
だから私にはギリギリの線に思えた。
日本人同士であったならば、何か特別の理由がないとこういう歳の女性とはおつきあいにはなれない
であろうに。

あるとすれば、人並み外れた資産があるとか、容姿が素晴らしいとか、余程のマメな男性であるのか
いずれかであろう。
そのひとつの条件も満たしていない私は、これを機会に結婚紹介所のお世話になろうとわらをもつか
む思いでしがみつくことにした。
システムとしては、まずは文通から。

相手の考え方などを手紙を通じて確認してくださいというシステム。
これが文通の素晴らしいところだ。
当然ながら言葉はわからない。
だから、紹介所の人が翻訳してくれた。
だから私は思いのままを日本語で書いて送ればよかったのだ。

書いて送ってくる文章がまた良かった。
今の日本の同年代の女性で、このような文章の書ける人がいったいどのくらいいるのであろうか。
率直にそう思った。
厨房に入ることを忘れ、包丁を捨て、ひたすらコンビニを追い求める日本の女性にこの手紙を煎じて
飲ませてやりたいとも思えるほどに素晴らしい文面であった。

何度かやり取りしているうちに、今現在の写真を送ってもらった。
その写真をみて、山口百恵をイメージした。
それと私の中学校当時の初恋の相手がダブって見えた。
このとき、村下孝蔵の『初恋』を口ずさんでいた。
♪好きだよといえずに初恋は〜 というやつだ。

無性に会ってみたくなった。
こんな気持ちになったのは初めてだ。
となれば、あとは私が決断するまでだ。
相手の女性は私が中国に来てくれることを切望してくれているので、ここからは私の気持ちひとつで
どうにでもなることなのだ。

だけどそのときに何も不安がないわけではなかった。
こんな綺麗な相手を選んで、騙されないのであろうか。
正直、この気持ちは本音の部分のほんの少しとしてありました。(白状します。)
でも騙されてもいい、この女性とほんのひと時でも一緒にいられたら、どんなによいことかと考えた。

恋とは、もともとそういうものであるから。
ここに計算づくというものはない。
率直に会いたい、会いたいだけなのである。
そしてお会いした結果、両思いであればこのうえない喜びになるのである。
今までひとりでいた甲斐があるというものだ。

私は結婚したいと思ったときがその人の結婚適齢期であるとこれまで書いてきましたが、これはこの
とき自らが思ったことなのです。
だから40前で周囲から、

『あのおやじがぁ〜』(語尾を上げる)

とか、

『いい歳してねぇ〜』

などと後ろ指さされようが、いっこうに構わないわけなんです。
自分さえよければそれでいいんです。(これは利己主義ではなくひとり立ちの精神です)
でもこれは独りよがりということではなくって、これが私の人生であるからです。
だからこれでいいんです。
誰にも迷惑をかけてはおりません。

訪中日は結婚紹介所にも相談をした。
業者にも都合があるだろうから。
通常、訪中の際には紹介所の人も一緒に中国に行くわけであるから、その分の費用も持たなければ
ならない。
今回はたまたま紹介所の人が先に中国に行っていたので、その分負担は軽くなった。

私はニンマリと微笑んだ。
これは大きい。
いろいろと考えた末、10月の後半ということになった。
向こうはハルピンという極寒の地。
だから寒くなるまでになんとか結婚をしたい。

行ってみて思ったが、寒くなるすぐ前の時期という感じであった。
帰る日は寒かった。
ハルピンの冬はただものではない。
ハルピンで結婚をするならば、春から秋に済ませるべきだ。
寒がりの人はなおさらである。

訪中日は忘れもしない、2001年10月16日であった。
新潟から直行便でハルピンに渡った。(当時は中国北方航空、いまは合併になって中国南方航空に
なっている。ただ飛行機は同機。)
空港に着くとたくさんの人が出迎えていて、そのなかに紹介所の人が待っていた。

外国は始めてであったのでとても不安であったのだが、日本人に付き添われてなんとか安心した。
タクシーで空港からホテルに移動した。
立派な道路だ。
あとでわかったが、立派な道路はここだけで、田舎道はどこもガタガタの未整地なのだ。

昭和30年から40年当時の日本を思うような感じ。(ちなみに私は40年生まれ。)
近代的な道路と昔の道路が両立しているようなところで、時代の過渡期であった。
ホテルに着くと、長旅の疲れを癒すために一服した。
時間が過ぎ、紹介所の人から呼ばれた。
お相手の女性が到着しましたと。

いよいよ世紀のときがやってきたのだ。
今まさに私は、プロポーズ大作戦のフィーリングカップル5対5の1メンバーになった気分でいる。
(♪ラッキーチャンスを逃がさない〜で〜)

お相手のいる部屋に向かった。
少々緊張しているのが自分でもよくわかる。
部屋にはいった。

??

正直、ちょっとイメージが違っていた。
女性っていうのは、服装や化粧、あるいは髪型などでずいぶんとイメージが変わるものだと実感。
まあでも、写真で見た姿と輪郭に違いはないことがわかったので、ホッとした。
やはり若い女性だ。

なにか照れているのだろうか。
あまりこちらを見ようとはしない。
シャイなのであろうか。
私はそんなふうに見られたことがないので、それがとても新鮮に感じた。
じっと相手を見る。

う〜ん、若い。
そればかり感じた。
同年代の女性にも綺麗な女性はとても多いのだが、それでもやはりふやけた人が多くなっているの
は否めない。
化粧しなけりゃ、肌もそんなに痛まないのになぁといえるような女性が。

みているだけでは話が前に進まないので、いろいろと話をしてみることにした。
顔が黒く焼けていたので率直に聞いた。

『どうしてそんなに顔が黒いのか?』

家の手伝いをしていたからです。(農家なのである。)
いまどき日本の農家の娘が、家の手伝いなどしますか?
しませんよね。
感心しました。
とても親思いなのです。

というか、手伝うのが当たり前なのでしょう。
まだまだ手作業が多い中国の農家なので、人手がないことには仕事がはかどりません。
だから農家の息子や娘は顔がみんな黒いのである。

文通のなかで、いま日本語の勉強をしていると書いていたので、どの程度わかるか日本語で話し
かけてみた。
すると、まったくわからなかった。
こんにちは、さようならとか、あいうえおくらいのことしかわからないのだろう。
このあたりは私も期待はしていなかった。

だって、私も中国語を勉強していると手紙に書いたけれども、向こうから中国語で話しかけられた
ら、たぶん何も返せなかったと思えるから。
だからお互い様なのだ。

言葉というものは、一日で話せるようになれるほど優しいものではない
お互いが少しずつ言葉を学んでいってそのギャップというものを縮めていくことが、国際結婚をし
た者たちの当然の義務であると考えたから、苦になると考えるよりも、これはひとつの楽しみを与
えられたと考えることで、自分にとっては使命とも思えた。

プロポーズの言葉はたしか、

『結婚してくれますか?』

だったと思う。
通訳もこんな話を世話していて、照れくさくならないのかなぁってよくよく思った。
その言葉の返しに、

『是』(はいの意味)

と言ったのを記憶している。
こうして私達はふたりの意思をひとつにまとめあげたのである。

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杜国朝

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